2012年7月21日土曜日

コジマのこと。

先週末、ツイッターのタイムラインを通じて悲しいニュースが入ってきた。

サッカーを通じて知り合った高校の1年後輩、なんだけど友人の1人が、金曜の夕方に亡くなった。胃がんだった。41歳って早すぎる。

去年あたりから、お互いにツイッターでフォローし合ってネット上で時々会話をしていたのだけど、どうやら身体の具合が悪いことは薄々感じていた。マーカーの数値がどうの、なんてつぶやいていて、あんまり深く突っ込んで聞く気になれなかった。

彼は僕の高校、大津が初めて冬の全国大会に行った時の10番だ。
当時はDF3人の後ろにスイーパーがいて、中盤も前も、左右と真ん中に配置するような原始的な形。それでも試合を作る役割の選手が10番をつけることが多かったはずだけど、ゲームメーカー的な選手(マサシ)は好みもあってか5番をつけていたから、典型的なCFの彼が10番をつけた。

こいつはその年に新設された体育コースではなく理数科の2期として入ってきていたこともあって、他の連中と比べたら頭も良かったし、プレーもなんとなくクレバーで、当時から会話もスマートだったように思う。そんなの大した違いがあるはずないから今考えてみればおかしな話なんだけど、菊池郡、阿蘇郡の中学出身者が大部分を占める県北の県立高に熊本市の中学から来ていたことも、あいつが何となく洗練された感じがした理由かもしれない。

サッカーとは関係ないけど、文化祭かなにかの時、あいつが全校生徒が集まった体育館のステージの上で、当時流行していたブレイクダンスを飄々と踊ったことがある。その記憶も、そういう印象を強くしてるのかな、と思う。
ともあれ、大人になって時々会って話をした時も、頭の回転の速さや表現の確かさは感じた。

高校を卒業してしばらくはどうしていたのか知らない。でも僕がタウン誌で働いていた20代の後半になった頃、街の洋服屋に彼が勤めてたことが分かって、同級生の1人と一緒に何度か飲んだ。その後、彼は洋服とサッカー用品を半分ずつ扱う「リベロ」っていう店を出した。当然、そういう形態の店はなかなか難しくて、残念ながら店は軌道に乗らず閉店したが、結局、あいつはサッカーに戻ってきた。地元のクラブチームで子どもたちを指導したり、個人でスクールを開いて教えたりしていたらしい。目先の結果ではなく将来を見据えたアドバイスや指導をしていたことを、関係者のブログを読んで知った。たぶん、論理的に、分かりやすく、冷静に、諭すように話していたんだろう。

日曜にあった葬儀に行くと、彼が指導した子どもたちとその保護者がたくさん参列していた。とても慕われていたことが分かって誇らしかったけど、同時に悔しい思いも募った。もっと教えてやらないかんことがあっただろうに。

彼の病気については去年から知っていたが、直接病状を聞いていないこともあって、いつかまた会えるだろうと思っていた。だけど2ヶ月半くらい前、あまり長くないかもしれないということが分かって、この男のことを書かなきゃいけないと思った。たぶん状況は悪化していて、自分でも覚悟してたんだと思う。ツイッター通じてそのことを伝えると、彼はこう返してきた。

「現在の病状になりサッカーを通して子供達の成長を促すことが最初にして最後の使命かと感じています。多分残された時間は多くない。それは確信しています。私が指導者であることと、先輩が書き手であることは必然なのでしょう。今一旦下がった数値がまた上がって来ています。正直不安だらけです。このタイミングでの先輩のツイートにも必然性を感じます。前進するタイミングが来たら、宜しくお願いします」

良くなるの待ってたんだけど、そうじゃなくてこっちから会いに行かなきゃいけんかったのにな。ごめんな、間に合わんかった。

でも葬儀に来ていた子どもたちを見て思ったよ。選手としてだけじゃなくて、将来指導者になる子もいるだろう。たぶんお前が教えたことはしっかり伝わって、それはこれからも続いていくはずだ。

何よりレベルが違ったから、そもそも俺が途中で退部してなくてもそういう時間は少なかったのかもしれない。でもほんの1年と少しだったけど、一緒にボールが蹴れて良かったよ。

ありがとな小島。
ゆっくりやすめよ。

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